“ふじのくに”
先人の偉業と先輩が築き上げてきた伝統

 

写真02. 

トオヤマキネンコンサート開催
~世界と浜松を結ぶ伝統のサウンド~

吹奏楽を通じた
国際文化交流の先駆者
遠山詠一先生の偉大なる功績


浜松工業高校、浜松商業高校の吹奏楽部OBOGが一同に集い、遠山詠一先生・音楽生活60周年を祝う演奏会が、2012年10月28日、はまホール(浜松市教育文化会館)において盛大に開催された。

演奏会の名称は“トオヤマキネンコンサート”

今も現役で音楽活動を続ける遠山詠一先生。
先生が、浜松工業高校や浜松商業高校の教諭時代に残した輝かしい実績と伝統のサウンドは、“日本の吹奏楽界の伝説”と呼ぶに相応しいほどの大きなインパクトを与え、吹奏楽を愛する多くの人々の記憶に刻まれている。

今回、イベントを主催するトオヤマキネンコンサート実行委員会から、遠山先生の教え子であり、現在浜松工業高校教諭の野末功さんと、浜松商業高校の卒業生による浜商OBOG吹奏楽団・団長の安藤勝義さんのお二人にお話しを伺った。
当記事は、お二人からの視点を中心に、遠山先生の偉大な功績を振り返り、キネンコンサート開催に至る経緯や抱負などをまとめたものである。


高校吹奏楽界の巨匠

高校野球界でチームを幾たびも甲子園出場に導き、優勝旗を郷土に持ち帰るなど、長年にわたって輝かしい成績をあげている監督は“名将”と呼ばれ、その名は全国的に知られている。
遠山詠一先生こそ、高校野球でいう“名将”であり、1970~1990年代にかけ、高校のスクールバンドの指導で全国的にその名を知られた、日本の吹奏楽界の巨匠である。


(写真) 遠山詠一先生 浜商定期演奏会 1987年

浜松工業高校と浜松商業高校の教諭時代、1964~1992年まで28年間で、全日本吹奏楽コンクールへ両校合わせて21回の出場に導き、金賞を10回受賞するなど、その成績は輝かしい。

1960年代といえば、高度経済成長の真っ只中である。楽器の街・浜松においても、楽器メーカーの職場バンドが全国大会に出場を重ねるなど、吹奏楽文化の花が開きはじめていた。そして、1960年代の終わり頃から、高校吹奏楽界の躍進とともに一気に満開の花を咲かせていった。

その先陣を切ったのが、遠山先生と浜松工業高校吹奏楽部である。


(写真) 浜工・全日本吹奏楽コンクール 1980年

1969年に全国大会初出場で、いきなりの2位受賞(当時は順位制)の快挙を成し遂げた。その後、1970年代前半、全国大会に連続して出場し、当時としては先駆的であった邦人作品(日本人作曲家が吹奏楽のために作ったオリジナル曲)を積極的にコンクール自由曲にとり上げて金賞を受賞するなど、浜松工業高校(以下、浜工)の時代を迎えていた。

その頃、遠山先生が指揮する浜工に憧れを抱きながら、少年時代を過ごしていたのが、今回、実行委員会副委員長を務める野末さんと安藤さんであった。浜松に生まれ、年齢では2つしか離れていない同世代のお二人にとって、その後の人生の方向付けに大きなインパクトを与えるほど、遠山先生の存在は大きなものになっていた。


(写真) 実行委員会副委員長 安藤さんと野末さん

「小学生の頃、たまたま近所の人が出演していたこともあって、直接演奏を聴く機会があったんです。この時、浜工で吹奏楽をやりたいなと思いました。」と野末さん。その後、夢を叶えて浜工に入学した野末さんは「私が入学した頃、すでに先生は全国的に有名で、偉大な先生でした」と語る。
一方、実家が商いをしていたことから、浜松商業高校に通うことになった安藤さんは、中学生の頃から「遠山先生と浜工に憧れていました」と語る。

野末さんが浜工に在学していた1977~1979年は、3年連続で全国大会金賞に輝いた時にあたり、一つの頂点を極めた時代ともいえる。高校を卒業した野末さんは、その後、母校・浜工の教員になり、遠山先生のもとで3年間、部の副顧問を務めた。遠山先生直伝の教え子の一人であり、その後、現在に至るまで伝統のサウンドを継承し、今回のキネンコンサート実現に向けても、野末さんが重要な役割を担っていくことになった。

その後、80年代を迎え、遠山先生は1983年に浜松商業高校(以下、浜商)に異動となり、それまで浜工で築いてきたサウンドと指導法を、浜商の伝統の上に見事に結実させ、1984~1992年まで9年連続で全国大会に出場を果たし、浜商吹奏楽部の黄金時代を築いた。


(写真) 浜商・全日本吹奏楽コンクール 1984年

遠山先生の偉大な功績を語る上で、これらコンクールでの輝かしい成績も大きな要素の一つであるが、そのほかにも特筆すべきことがある。


国際文化交流の先駆者

“グローバリゼーション”という言葉が普通に語られる今日、音楽文化をはじめ、様々な分野において、国境を越えた交流が活発に行われている。大学などの教育機関でも「国際コミュニケーション学科」を開設する学校も増加しているように、国際的なコミュニケーション能力の育成が求められている。時代の流れの中で現在、音楽を通じての国際的な交流も様々な形で行われている。

そういった中、「吹奏楽」を通じての国際文化交流を、今から40年以上も前から全国に先駆けて、数多くの事業を推進してきたのが遠山先生である。

「先生はレッスン(合奏指導)で、必ず世界の話をするんです。」と野末さんが語るように、先生ご自身が幾度も海外を訪れ、そこで直接見聞し、肌で感じ取ったものが、学校の部活動の範疇にとどまらず、地域に波及しながら、全国全世界へと広がる様々な文化事業の推進につながっている。
このように世界を知ることが、多方面で活躍を続ける先生のみなぎるパワーのバックボーンの一つになっていることが伺える。

「先生は昔から国際的だったんです。1969年の夏に、イギリス、オランダ、ベルギー、ドイツ、スイス、フランスをまわり、吹奏楽を中心に音楽を研究し、スケールが一層大きくなったと思います。」と野末さん。
この年、ヨーロッパから帰国してすぐのコンクールで、浜工は全国大会に初出場で2位という快挙を成し遂げている。

それから4年後の1973年には、全米国(Mid-East)大会に出演し、全米各地(ロサンゼルス、ニューヨーク、ワシントン、マイアミ、ハワイ)で演奏、さらに、メキシコ大統領の招きでメキシコシティでも演奏するなど、浜工の吹奏楽部を率いて演奏旅行を行っている。これは公立高校の吹奏楽部としては全国初の快挙であった。
「当時、アメリカでの浜工の演奏が収録され、アメリカでリリースされたLPをよく聴いたんですが、今でも貴重な宝物です。」と懐かしく振り返る野末さん。

翌1974年の春、先生は日本で初めて結成された全日本高校選抜吹奏楽団(110名)の指揮者として渡米、同年夏には、再びヨーロッパ各国の吹奏楽を見聞してまわるなど、精力的に世界を歴訪している。1976年には、アメリカ建国200年祭に全日本高校選抜吹奏楽団を指揮し渡米、全米10都市で演奏。その後も毎年のように吹奏楽の国際会議に出席するなど、先生の視線は常に世界に向けられていた。

「先生は、浜工の生徒だけでなく、地域の中高生のことも大切にされていました。」と野末さんが語るように、1978年には、オランダで開催された第8回世界吹奏楽コンクールに、静岡県選抜中学高校吹奏楽団(113名)の団長兼指揮者として出場。日本のバンドとして初めての出場となった世界大会において、17ヶ国40団体の中から見事第1位グランプリを受賞している。

現在、母校の浜工で教鞭をとっている野末さんは、学校で「国際交流」を担当している。海外に出かけ、世界を肌で感じることから学んでいく生徒たちの姿を毎年見ている。
「今でこそ、国際化は当たり前になっていますが、昭和40年代から世界に出て行った遠山先生は先見の明があります。グローバルな人材を育てるという意味でも、先生は素晴らしい。」と力説する。
自身の体験としても「高校2年の時、県選抜の吹奏楽団の一員として、オランダ、スイス、オーストリアに演奏旅行に行ったことが、自分の人生の中でも大きな転機になりました。」と野末さん。


(写真) 野末 功さん(浜工OB)

1983年の夏には、静岡県吹奏楽連盟結成25周年記念事業として、カナダとアメリカに親善演奏旅行が行われた。先生は、県高校・中学選抜吹奏楽団(92名)の指揮者として、バーリントン、ナイアガラ、ロサンゼルス近郊のグレンドーラ、ディズニーランドにて演奏。ナイアガラでの演奏会では、アメリカ吹奏楽界の巨匠フレデリック・フェネル氏の指揮で演奏を行った。


(写真) カナダ・ナイアガラでの演奏会(指揮:F・フェネル) 1983年

また当時は、浜松から海外に出るだけでなく、春頃には海外のバンドを招いて、浜松でも親善演奏会が度々開かれた。音楽を通じた交流の場には、高校生だけでなく、浜松の中学生も参加できる機会がつくられた。
「海外のバンドが浜松に来た時、浜工で練習があって、中学から5名ほど参加しました。言葉は通じないけれど、ピッチやテンポなど、身振り手振りでやりとりしながら、一緒にパート練習をしたんです。当時、中学生が海外の人たちと交流する機会など無い時代に、遠山先生がそういう場を作ってくれたんですよね。よく覚えていますよ。」と中学時代を振り返る安藤さん。

 
(資料・写真) 日米吹奏楽親善演奏会(浜松) 1984年

伝統ある浜工や浜商を卒業し、地元浜松の産業界で活躍しているOBOGは実に多い。
「いま世界に出て行っている浜松の企業が多い中、昭和40年代から全国に先駆けて行われた、遠山先生によるグローバルな国際文化交流は、浜松の産業界の力になっています。」と野末さん。

お二人が口を揃えるのは、「遠山先生はすごい!」の一言に尽きるとのこと。
まさに、日本の吹奏楽界におけるグローバル化と国際文化交流の先駆者といって過言ではない。

浜工が全国大会に初出場した1969年から40年以上がたった現在、日本は世界有数の吹奏楽大国と呼ばれている。世界的にみても、これだけの発展を遂げていった歴史の中にあって、コンクールでの輝かしい成績にとどまらず、国際文化交流の道を拓いた遠山先生の功績は絶大である。

また、世界だけでなく、地域における文化交流という点からも、先生は現役教諭時代から精力的に活動されてきた。

代表的なところでは、浜松駅前で週末に開催されている「プロムナードコンサート」を浜商時代の1984年に創設。市民の誰もが気軽に足を止めて、音楽を楽しむことができる場を作った。


(写真) 浜商・駅前プロムナードコンサート 1984年

さらに1989年には、吹奏楽の“センバツ”とも呼ばれる「全日本高等学校選抜吹奏楽大会」を浜松へ誘致。日本のトップクラスの高校の演奏を浜松の中高生たちが直接見聞きすることができる機会を作った。また、期間中には出場校が駅前のプロムナードコンサートに出演するなど、市民との交流の機会も設けられている。
全国のトップ校を招いて開催するイベントは、先生の浜工時代から「トップコンサート」という形で行われていたことであるが、この選抜吹奏楽大会は、それをスケールアップしたものである。


(資料)浜工&淀工 吹奏楽トップコンサート 1982年

このように先生は、楽器の街から音楽の都に飛躍しようとしている浜松市の音楽文化向上に、現役教諭時代から大きく寄与されてきた。
さらに、教壇から退かれた後、1995年には、アジアで初めての開催となる世界吹奏楽大会(WASBE)の浜松市招致に成功し、大会実行委員長を務めるなど多大なる尽力をされた。この世界大会は、1969年より世界を見聞し、四半世紀にわたり浜松の音楽文化向上のために貢献されてきた先生が、地元で大輪の花を咲かせた一大イベントとなった。

これらの大事業を全国に先駆けて次々と推進し実現させていく、これほどの人物がこれまでいただろうか?

「先生のバイタリティは、本当に凄すぎます。」と安藤さん。

視点が世界に向けられたところで、あらためて部活動の指導という視点に戻した時、次のような疑問を感じる方も多いのではなかろうか。

部活の顧問として生徒たちを指導し、コンクールで優秀な成績をあげ、それを毎年継続するだけでも至難の業であるが、遠山先生は、学校の枠をこえ、地域、全国、世界へと活躍の舞台を広げている。学校を離れることも多いはずなのに、一体どのようにすれば、部活動でこれだけの成果を達成できるのだろうか?


栄光の舞台裏「驚愕のリーダー育成法」

遠山先生のような偉大な指導者は、一般的に「カリスマ」的なイメージを持つ人が多いと思われる。音楽づくりに対しても、合奏指導も長い時間をかけ、細部に至るまで自分の意のままに指揮していく姿を思い浮かべる人も少なくないと思う。
ところが、事実はまったく逆であるから驚きだ。

「私は先生の指導法が好きです。」と語るのは、教え子の野末さん。

部員の中から、部長、学生指揮者、ドラムメジャーの3名を選出する。
部全体の運営に責任を持つのが部長、音楽に関する練習に責任を持つのが学生指揮者、マーチングの指揮と練習に責任を持つのがドラムメジャー、この3名のリーダーを中心に部活動を組織するものだ。
学生指揮者は、練習の課題などを先生に事前に聞きに行き、部の練習をとりまとめていくスタイルだが、先生自身は、コンクールや演奏会など本番の前以外は、合奏練習に姿を見せることは少ないという。

「学生は責任を与えられ、任せてもらえると頑張るんですよ。」と野末さん。

生徒の自主性を最大限に引き出し、音楽づくりの大半を生徒に委ね、最後のところでスパイスを加えるように、先生の音楽性を加味して音楽を仕上げていく手法だ。
また、先生が長期間不在の時、外部からプロの指導者を呼んで合奏指導の代行することは一切していないという。
「浜工のようなスタイルで部を運営しながら、全国のトップレベルを維持している学校は少ないでしょう。」と野末さん。1979年の夏、学生指揮者を務めていた時のエピソードを語ってくれた。

「その年、先生は夏休みに1カ月くらい海外に行かれて、ずっと学校にいなかったんです。前年全国大会に出場したので、コンクール県大会では招待で演奏するんですが、先生は県大会の2日前くらいに帰国されたんです。最初は先生が自分で指揮しようとしたんですが、『私が振りますので、先生は客席で聴いていてください。』と言ったら、『わかった。』と言って先生は学生だけでコンクールの曲を演奏することを許してくれたんですよ。」

全国のトップ校の指揮者であり、指導者としても確固たる地位を築いている先生であればあるほど、「自分が指揮をしなければだめだ」と考えるのが普通だと思われるが、このエピソードは、先生の懐の深さと、普段から努力を重ねている生徒たちに対する信頼の証といえよう。
この数週間後に先生が指揮をして東海大会で代表となり、全国大会で3年連続の金賞を受賞している。

吹奏楽部において、夏の甲子園に匹敵するコンクールに出場する場合、もっとも練習時間をかけ、密度の濃い練習ができるのは夏休みの期間である。この夏休みにどれだけ音楽を熟成できるかが予選を突破する上で勝負の分かれ目になるといっても過言でない。
ところが、この大切な夏休みに1カ月近くも先生が不在でありながら、その間、学生だけで練習を重ね、優秀な成績を維持していくのは、驚き以外の何物でもない。

世界を見つめる視点を一貫して持ち続けて海外に足を運ぶ先生もさることながら、留守中に部員をまとめて、あとは先生にスパイスを加えてもらうだけといったところまで熟成させる学生指揮者にも脱帽である。

普通に考えてみれば、生徒だけの練習ともなれば、どこかで妥協したり、お互いに「こんな程度でいいか」と自分たちの基準で線を引いてしまったり、厳しい目で向上心を持ち続けることは、結構難しいと思われる。しかし、そこは先輩から引き継がれた伝統校の風土がそうさせるのか、先生の音楽とサウンドを徹底的に自分たちのものしようと努力を重ねる学生指揮者と、そのリーダーを信頼し、皆で心を合わせてアンサンブルをする部員全員の総力なくして、成し得ることはできなかった偉業ではないだろうかと思う。このことは、本当に特筆すべきことであろう。


(写真) 浜工・吹奏楽コンクール全国大会 1980年

「先生が振る合奏の時の空気や緊張感は半端なものじゃないですね。」と安藤さん。また、「あれだけの感性をもつ人はなかなかいないですよね。」と語るように、先生のオーラのようなものと、感性がスパイスになって音楽を豊かなものにしているのではないか、と二人は口を揃える。

「音楽的にうたい、抑揚があり、その中にも絶妙な“間”があるんです。先生の指揮は、特に芸術点が高いですね。若い頃はわからなかったんですが、今の歳になってだいぶわかるようになってきました。」と野末さん。

タクトを握れば、そこに全身全霊を傾ける先生の音楽に対する姿勢が、自分たちで妥協を許さず最大限の練習を続けた生徒たちの努力の上に、見事に結実した結果が、栄光の歴史を生んできたと思われる。

浜工で確立されたリーダー育成法は、先生が浜商に行った後の浜工でも継承され、その後も野末さんの指導のもと、コンクール東海大会で金賞を連続して受賞するなど、遠山先生の浜商と共に静岡県のトップ校として活躍を続けた。

そして、1983年から先生の指導を受けることになった浜商においても、浜工でのスタイルは継承された。

「先生が母校に来ることは、とても嬉しかったです。」と当時の心境を語る安藤さん。

浜商も浜工と並ぶ名門であるため、長年築かれてきた伝統が、偉大な先生が来ることによって、逆に壊されてしまうのではないか、といった不安の声もあったという。

「浜商は、私がいた頃もそうでしたが、専門に音楽指導をする顧問がいなかったので、学生が音楽づくりを全部やっていたんです。」と語る安藤さん。
その意味では、浜工以上に学生主体で活動を続けてきた土台が浜商にはあった。そのようなスタイルによって、遠山先生の指導法を違和感なく受け入れることができた。先生が浜商に行った翌年(1984年)から、全国大会に9年連続で出場するなど、浜商の躍進が始まることになる。


(写真) 浜商・吹奏楽コンクール全国大会 1986年

写真は、浜商が全国大会で初めて金賞を受賞した1986年のもので、全国の頂点に立った瞬間である。この年のコンクール自由曲は、1969年に浜工が初出場で第2位に輝いた時と同じ、バッハの“トッカータとフーガ ニ短調”である。

このように、浜工、浜商と継承されてきたのは、驚愕のリーダー育成法だけではない。
遠山先生の音楽の看板といえる、伝統の“トオヤマサウンド”こそが最大の魅力だ。


“トオヤマサウンド”の魅力

浜松には、1990年代半ばにオープンしたアクトシティがあり、大ホールの収容人数は2000名を超える。4階席の最後列からは、舞台を下に遠く見下ろすことができるほど、ホールの空間は巨大である。

「ここしばらく、アクトシティの大ホールで聴いていても、体で音圧を感じる演奏と出会うことはないですね。」と話す野末さん。

音楽室の合奏練習で、音程や音型、ブレスのスピードなどを細部に至るまで全体で調和させることで、綺麗で濁りの少ない純度の高い和音をつくり、総合的なサウンドの豊かさを追求する傾向が、近年の吹奏楽界の潮流であるといえる。
その流れの中にあって、聴く人々を魅了し続けた、浜工や浜商の伝統のサウンドは、今も日本の吹奏楽のレジェンドとして、往年の吹奏楽ファンの心に刻まれている。

言葉で表現すると、「自由でのびのびと、自信に満ち溢れ、よく鳴り響くサウンド」といった形容がふさわしいかもしれない。野末さんがいう「音圧」を感じるサウンドがまさにそれである。
それは、ただ単に大きい音で思いっきり鳴らせばいいというものでもない。それが、汚い音であったり、割れてしまう音であれば、逆にうるさく耳障りなものになってしまうだけだ。

「すぐ近くで聴くと荒削りな感じがするが、ホール内の離れた席で聴くと、それが綺麗に響いて聴こえ、体にも音圧を感じるほどの迫力のある音に聴こえるんですよね。」と野末さん。
「浜工は周りに住宅もなく何もないので、思いっきり外で音を出せる環境があるのはほかとは違いますね。」と、毎日の練習環境も大きな要素の一つであるという。

「外で吹くと、一切残響がないので、本当に自分でしっかり鳴らして、自分の体の中で響かせないといい音には聴こえないですよね。」と安藤さん。


(写真) 安藤勝義さん(浜商OB)

吹奏楽のルーツにも通じる部分もあるが、編成的に管楽器が大多数を占め、人数も多い吹奏楽の形態から、この視点は実に理にかなっていると感じる。

モーツァルトが活躍した18世紀より前の時代のヨーロッパでは、音楽はもっぱら王宮や貴族の邸宅の部屋の中か、貴族が集うサロンのような社交場で演奏されていた。日本の六畳の部屋に比べれば広いが、空間的にもそれほど広いとは言えない部屋の中で楽しまれた音楽は、ピアノのほか、弦楽四重奏など人数が少ない編成で演奏される、いわゆる「室内楽」が主流であった。部屋の大きさに準じて、心地よく聴こえる音楽を作曲すると、室内楽のサイズの編成になったとも考えることができる。
逆に貴族の邸宅の庭、つまり屋外で演奏する場合、ピアノなどの大型楽器は運搬が難しいこともあり、管楽器を中心にした室内楽の作品も作曲されたといわれている。そういった時代の中で、大きな舞台装置を必要とするオペラの劇場が、比較的に規模が大きな会場だったといえる。
時代が進んで、19世紀後半になり、2000名規模の巨大なコンサートホールが多数建設されるようになり、それにあわせて、マーラーなどの作曲家が、100名を超える大編成による作品を創作するようになった。2000名のホールには、大オーケストラや大合唱団による演奏こそが相応しいとも考えることができる。

吹奏楽は、トルコの軍楽隊がルーツと言われているが、ヴァイオリンなどの弦楽器とは異なり、一本一本が大きい音で鳴り響く楽器が多く集まっていて、しかも、それが大きな編成にもなれば、王宮や貴族の邸宅の部屋では、スケール的に小さい。
やはり、吹奏楽の場合、2000名規模の大ホールや屋外での演奏が、その真価を最も発揮できる編成とも解釈できる。

音楽室の中での合奏で綺麗に鳴っていると感じたとしても、それが、大きなホールで演奏を聴いた時に、こじんまりとした印象を受けてしまうのは、そのようなスケール感のギャップから生じるものであると考えられる。

「綺麗にまとめてしまうと、録音では良く聴こえるんですよ。」と野末さん。

専門レーベルが複数登場し、定期演奏会等のライブ録音のCDのリリースやネット配信が行われている吹奏楽界の環境も多少なりとも影響しているかもしれない。録音ではとても優秀な演奏であっても、同じ演奏を大きなホールでライブで聴いた時に、いま一つ、何か物足りなさを感じてしまうという。

伝統の“トオヤマサウンド”は、世界の吹奏楽を肌で感じてきた先生が、最初からスケールの大きな感性をもって、浜工や浜商の生徒たちに伝授したことから生まれた、実にのびやかなサウンドであるといえよう。
トオヤマサウンドのように、音圧を体感できるようなサウンドと出会える機会が、近年、少なくなってきている。

「トオヤマサウンドを再現したいです!」と野末さん。

1970年代から1990年代にかけて、多くのファンを魅了した伝統のサウンドに出会える瞬間が、まさに“トオヤマキネンコンサート”である。


人と人との出会いが生んだキネンコンサート

今回のキネンコンサートは、両校のOBOGが今年になって急に参集して、短期間の間に実現されたものではない。そこに至るまでには、長年培われてきたOBOGの皆さんの熱意と絆があった。

「遠山先生のおかげで、いろんな人が出会えるんですよ。」と安藤さん。

今から遡ること8年前、伝統の浜商サウンドを継承していきたいという思いからOBOGが集って「浜商OBOG吹奏楽団」を結成。現在も活動を続けている常設の楽団である。結成当時、指導を誰にお願いするのかという話になった時、遠山先生の指導を受けてきた野末さんに白羽の矢が立った。「野末先生には、快くお受け頂きました。」と安藤さん。

一方、浜工のOBOGは、常設の楽団という形態ではなく、母校の現役生の第40回記念特別演奏会への出演を契機に、OB祭への出演など、イベントの度に、音楽活動を続けているOBOGが全国から集って伝統のサウンドを響かせている。

特に古くから参加しているOBOGは、遠山先生が共通の師であるという接点があるほか、現役生は毎年「グリーンコンサート」を開催し、両校の交流を継続している。


(資料)浜商&浜工 第17回グリーンコンサート 2012年

そういった中、両校のOBOGをつなぐ、もう一つの架け橋となるイベントがあった。
浜松市民有志が主催し、今や浜松の看板イベントの一つとなっている「やらまいかミュージックフェスティバル」である。2012年で6回目を数えるが、吹奏楽だけでなく、幅広い音楽を奏でるアーティストたちが、全国から集う一大音楽イベントである。
このフェスティバルの実行委員を務める安藤さんは、「3回目の頃から、『浜工と浜商のOBOGとその仲間たち』ということで“やらまいか吹奏楽!団”を結成して、毎年出演するようになったんです。」と当時の経緯を振り返る。

両校OBOGの交流が深まる中、「2010年に浜松で開かれた国際ユニヴァーサルデザイン会議に、やらまいか吹奏楽!団が出演したんですが、その時に今回キネンコンサートの実行委員長を務める永田さんが初めて参加されたんです。この時に永田さんとの出会いがなければ、今回のコンサートはもっと先になっていたかもしれませんね。」と安藤さん。


(写真) トオヤマキネンコンサート実行委員会の皆さん

浜工と浜商が、共通の“トオヤマサウンド”を継承しながら、それぞれにOBOGが活動を続け、浜松の地域振興イベントを架け橋に両校が絆を深め、先生直伝の教え子である野末さんの指導のもと、今回に至る流れを伺うと、すべては“トオヤマキネンコンサート”のために用意されたシナリオではないか?、と思えるほどの巡り合わせを感じる。


キネンコンサート開催、そして、未来へ

トオヤマキネンコンサートが行われた「はまホール」は、遠山先生と浜工・浜商が共に歴史を刻んだ、いわば“聖地”のような場所である。

現在、はまホールがある浜松市教育文化会館は、1994年にアクトシティがオープンする前までは「浜松市民会館」として、浜松の音楽を発信する拠点だった。定期演奏会、吹奏楽コンクール、親善演奏会など主要なイベントは、ここで開催されていた。両校OBOGにとっては、思い出がいっぱい詰まったホールである。

「自信に満ち溢れた“トオヤマサウンド”を再現したいですね。それを『皆さんに聴いていただきたい』っていう衝動にかられるんです。」と野末さん。

今回のキネンコンサートでは、両校のOBOGが1ステージずつ演奏し、それぞれ先生の教え子にあたる現役の吹奏楽指導者が指揮。そして、遠山先生の指揮で、両校総勢120名を超える合同バンドの演奏が行われた。

取材の最後に、「コンサートを通して、伝えたいことはありますか?」と伺ってみた。それぞれのお客様に対して、お二人は次のように語られた。

いま音楽にふれている若い世代の皆さんには、
「歳をとっても関係なく、音楽を思い切りできることを伝えたい。」

昔からの吹奏楽ファンが多い浜松にあって、ファンの皆さんには、
「今ではなかなか聴くことができない、心にも、体にも響く演奏をお届けしたい。」

遠山先生や浜工・浜商のファンの皆さんには、
「先生との想い出がいっぱい詰まった曲が演奏します。当時を知る人にとっては、タイムスリップする瞬間ですね。学生時代に戻った感じで聴けますよ。」

今回出演するOBOGを支える皆さんにも、日頃の感謝をこめて、
「普段の活動の陰で、家族にも負担をかけることが多いです。私たちが現役の頃、浜工や浜商にもこういった時代があったということを、家族にも理解してもらえる機会になればと思っています。」

遠山先生が浜商を指導した最後の年から20年の時を刻んだ浜松では、先生の教え子たちが、プロ奏者になったり、音楽の指導者になったり、市民楽団等で今も現役で演奏を続けていたり、多方面に活躍している。先生が先駆者となって切り拓いた道は、いま後進たちによって大きく裾野を広げている。

吹奏楽人口が特に多い浜松にあって、両校のOBOGの多方面にわたる活躍はめざましく、音楽の都・浜松の音楽文化や音楽産業の発展に大きく寄与していることは言うまでもない。

「先生と共に音楽を創った当事者として、誇りに思えるイベントにしたい。」と力強く語る野末さん。

この“誇り”こそが、伝統のサウンドを継承し、先生の功績を伝えていく原動力になるに違いない。


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[プロフィール]

遠山 詠一 (とおやまえいいち)


高校時代までを北海道小樽市で過ごす。
1951年、全道ハーモニカ独奏コンクール優勝、東日本大会入賞
1953年、神奈川大学在学中に吹奏楽部を結成指揮。
1959年、浜松海の星高校器楽部を結成。3年後、東日本大会に出場。
1964~1983年、浜松工業高校吹奏楽部を指導。吹奏楽コンクール全国大会に12回出場(金賞6回)
1973年、浜松工業高校全国1位の時、日本代表としてアメリカ・ピッツバーグで開催された全米国(Mid-East)大会に出演。ロサンゼルス、ニューヨーク、ワシントン、マイアミ、メキシコ、ハワイの諸都市で親善演奏を行う。(公立高校吹奏楽部としては全国初の快挙)
1983~1992年、浜松商業高校吹奏楽部を指導。吹奏楽コンクール全国大会に9回出場(金賞4回)

海外の吹奏楽界との交流も多く、親善演奏会や国際会議での客演指揮など出演多数。
1995年、世界吹奏楽大会(WASBE)の浜松市誘致に成功。大会実行委員長をと務める。

2012年、浜松市市勢功労者受賞。
同年、音楽生活60周年を祝う“トオヤマキネンコンサート”で浜工・浜商OBOGによる吹奏楽団を指揮。
現在も現役で音楽活動を続けている。

社団法人日本吹奏楽指導者協会 前会長
日本高等学校吹奏楽連盟 理事長
浜松市吹奏楽連盟 理事長


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最後に、遠山先生の功績に敬意を表するともに、“トオヤマキネンコンサート”の開催をお祝い申し上げます。先生の益々のご健勝とご活躍を心より祈念いたします。
今回の開催を機に、歴史ある伝統のサウンドが再現され、未来に継承されていくことを心から願っています。そして、今回のキネンコンサートが、両校OBOGの枠をこえて、地域の“誇り”に思える起点になることを切望しています。
野末功さん、安藤勝義さん、取材にご協力くださり、ありがとうございました。
また、関係資料をご提供いただいた、両校のOBOGの皆さんにも感謝いたします。ありがとうございました。

 [取材] 2012年8月3日・浜松市福祉交流センター 会議室

(取材・編集 : 桜木敬太)

Update ; 2012.10.28
(修正:2012.10.31)